船橋市 キリスト教徒にとってのエルサレム
この嘆きの壁から北西に500メートルほどの地点に、イエスキリストが処刑されて亡くなった場所に建設されたという「聖墳墓教会」があります。
キリスト教は313年にローマの国教となりましたが、320年頃にコンスタンティヌス帝の母がエルサレムの巡礼を行なったために、エルサレムは「聖地」として見直されたのです。そのため、聖墳墓教会もこの頃に建設されたといわれています。
聖墳墓教会の中には、イエスキリストの遺体が横たえられたという石や棺、お墓があります(遺体は「復活」したため存在していないとされています)。そして、イエスキリストが十字架を背負わされて歩いたとされる道が、悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)です。この道はイスラム教徒地区を東西に横切るかたちで存在しており、キリスト教徒はこの道をたどって聖墳墓教会へと向かいます。
キリスト教には多様な宗派がありますが、イエスキリストのお墓のある聖墳墓教会はすべての宗派のキリスト教にとって、ひじょうに重要だと考えられています。皆がその重要性をみとめているために、聖墳墓教会についてはひじょうに細かい決まりごとがあり、その規則は「ステイタス・クオ(現状維持)」問題と呼ばれています。
この決まりごとは1852年から現在に至るまで、まったく変化していないままだといわれています。たとえば、多数の宗派がひしめき合っているために、聖墳墓教会でシリア正教会が礼拝ができるのは祝日のみとか、アルメニア正教徒が礼拝してよいのは教会正面の右側のみなどと決まっているのだそうです。
そのほかにもこの柱を磨いてよいのはギリシャ正教徒で、あの梁はカトリックだけといった具合に、掃除や用具の配置にいたるまで、他宗教のものにとっては信じ難いほどの細やかな規則があるそうです。
こうした細かな規則をめぐって、1984年にはベツレヘムの生誕教会で、東方正教とアルメニア正教の修道士が、梁の掃除をめぐって殴り合いになったそうです。2008年にもギリシャ正教とアルメニア正教の修道士たちが、まさにこの聖墳墓教会内において、乱闘するという事件も発生しました。
もちろん、同じ宗教の中だけで諍いが起きているわけではありません。エルサレムをめぐる戦いとしては、絶えずつづいているといっても過言ではありません。
ユダヤ教の次にやってきたのはキリスト教で、さらにその後の638年にはイスラム教徒がエルサレムを占領しました。けれども、十字軍によって1098年にはキリスト教徒が再度エルサレムを奪います。
この時にエルサレムに居住していたユダヤ教徒とイスラム教徒のほとんどが殺害され、両宗教の人々は居住を許されませんでした。ですが1239年には再度、エルサレムはイスラム教徒に占領されることとなります。
本日、船橋市二和東自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて
船橋市豊富町セコメディック病院に通院治療をされ戻りました。